2010.09.07
調査/分析 歐陽 宇亮(株式会社ラユニオン・パブリケーションズ)
皆さんは「フィリピン」という国の名前を聞くと、何を真っ先に思い浮かぶのだろうか?
セブ島などのリゾート地?
日本に来て介護の仕事をするお姉さん?
それともバナナなどのトロピカル・フルーツ?
実は最近、中華圏で「フィリピン」というと、真っ先に出てくるのは「バスジャック」という言葉だ。
2010年8月23日、フィリピンの首都マニラで、25人の香港人旅行者を乗せた観光バスが乗っ取られ、11時間の膠着状態の末、壮絶な銃撃戦に発展してしまい、香港人8名死亡7名負傷という最悪な結果になったのである。
日本ではあまり注目されていないが、この事件はCNNやBBCといった世界的なメディアがトップニュースとして報道しており、香港をはじめ中華圏のメディアに至っては、連日「フィリピン」一色である。
このバスジャック事件で、中華圏におけるフィリピンのイメージは地に落ちた。とりわけ香港の人々は、事件の一部始終をテレビ中継で見ており、多大なトラウマを負っている。香港側は、たった一人の犯人に対して人質を救出できなかったフィリピン警察の不手際だけでなく、フィリピン政府や国民の反応にも怒りを募らせている。フィリピンのアキノ三世大統領は、事件中・事件後に香港政府のトップ・曽蔭権(ドナルド・ツァン)行政長官からの緊急連絡要請を拒否し、事後の記者会見にも笑顔で臨んだなど、香港のみならず中華圏の多くの人々を激怒させた。
また、事件の舞台となったバスを背景に、笑顔で記念撮影をする警官やフィリピン国民の写真がフィリピン紙に掲載され、インターネットにも大量に流出した。射殺されたフィリピン人犯人の棺にフィリピン国旗が被せられる映像や、フィリピン人が亡くなった香港人の棺を開けて遺体を侮辱するように見える映像が流出し、香港人はそれらを大量殺人者に敬意を払い、死者を蔑む行為と受け止め、在比中国大使館まで抗議声明を出した。さらに捜査をするため現地に向かった香港警察がマニラの空港で一時拘束される騒ぎも起き、香港人の怒りに拍車をかけた。
この事件と一連の経過を受けて、香港は8月下旬に3日連続半旗を掲げ、また事件当日からフィリピンへの渡航情報を最も危険なレベルにしたまま(9月7日現在)であるという極めて異例な対応を取っている。8月29日には、香港の7大政党主催の追悼・抗議デモに8万人の香港市民が参加した。香港人の悲しみと恐怖、怒りの感情は、香港から台湾や中国大陸へと飛び火しており、台湾や中国大陸のメディアも追悼の意を表明し、フィリピンを痛烈に批判している。フィリピンを擁護する発言をした香港の映画俳優のジャッキー・チェンまでも、中華圏の人々の怒りに晒されている。
皆さんは、「この事件は日本とどのような関係があるの?」と思うかもしれない。ところが、実はこうした動きは、フィリピン以外の観光大国にも深刻なダメージを与えているのだ。今回の事件を通じて、中華圏の情報と流行の発信地である香港の人々は異国での人命の価値の違いを痛感し、中華圏の人々は広く発展途上国を「人命を軽視する国」「人間の命の値段が安くなる国」と思うようになった。とりわけ中華圏で人気のある旅行先である東南アジアは、忌避されるようになっている。すでにフィリピン観光省の予測では、香港からの観光客数は09年の30万人から今年は10万人に減少し、60億円の損失が出ると見られる。香港現地の情報によると、従来人気のある東南アジアの観光地(インドネシアのバリ島やカンボジアの世界遺産など)から南アジア、中東、中央アジアまでも避けられるようになっている。中国政府も、香港政府ほどではないものの、フィリピンへの渡航情報を危険なレベルに上げた。中国大陸の多くの旅行会社も、フィリピンへのツアーを中止し、他の東南アジア諸国へのツアーも減らしている。
この流れの中で、一人勝ちするのは、「安全性」を最大の売りの一つとする日本である。豊かな観光資源を有する国は少なくないが、治安が良く安全に観光できる国は、実は欧米諸国を含めてもそれほど多くない。欧州でもアメリカでも、犯罪率が日本より遥かに高い国が多い。ヨーロッパ旅行に行って、ちょっとした犯罪事件に巻き込まれたと失望する声がよく聞かれる。対して、日本の治安の良さは世界でも有名で、中華圏ではほとんど「神話」の域となっている。
「フィリピン」の惨劇を経て、旅行先の選択においてより一層「安全性」を求める中華圏の人々は、今後ますます日本に靡いてくるのは容易に想像できる。「危険地域」と思われるようになった東南アジアから離れた北東アジアの「安全島国」は、その治安の良さを武器にして、中華圏の旅行者を虜にしていくだろう。皆さんも順風に乗って、「まいど!中国」と駒を進めていってはどうだろうか?